アドラー心理学における『究極目標』とその考え方
- 鈴木昇平

- 2020年6月30日
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アドラー心理学には「究極目標(final goal)」という言葉があります。これはギリシャ哲学における、プラトンが提唱した「善(agathon )という究極目標」にその由来があるとされ、「善」という言葉の本来の意味は「自分にとってためになる」という意味だと言われています。
つまり、この「善」は必ずしも道徳的な意味合いのものではないのです。人間は自分にとって「ためになる」ことしかしない。それらは全て(自分にとっては)「善」であると考えるということです。
アドラーはこんな言葉を残しています。
【様々な心理学派が名づけたもの-本能、欲動、感情、思考、行為、快楽と不快への態度、さらに、自己愛と共同体感覚、これらすべても同じ道を歩む。ライフスタイルは、あらゆる表現形式を自由に用いる。全体は部分を自由に用いるのである。もしも失敗すれば、その失敗は、運動法則、ライフスタイルの究極目標の中にあるのであって、それの部分の表現の中にはない。生きる意味を求めて(アルテ)4頁】
そう、人生の誤りや失敗はライフスタイルの「究極目標」の中にあるのであって、それによって作り出される本能や欲望、思考や感情や行動といった表現形式の中にはない。
例えば、犯罪や不正行為などを行う人も、「自分のためになる=善」と思うからそれを行うのであり、その表現の一つ(部分)である行為そのものは「悪」ではない。失敗や誤りがあるとしたら、その人が作り上げた「ライフスタイルと究極目標」という(全体)の中にあると、アドラー心理学では考えます。
アドラー心理学を学び始めると、誰もが一度は自分の「究極目標」に興味をもちます。私自身がそうでした。自分自身がどこに向かって生きているのか、その最終ゴールを知ることができたら、「困難に満ちた人生がどれほど意味のあるものに変わるだろうか」と思ったからです。それはまるで「占い」のような感覚だったのかもしれません。
しかし、アドラーの著作を調べてみて分かったことは、究極目標とは、その人の「生き方」を変えてしまうほど具体的で説得力のあるものではなかったということです。
アドラーは『生きる意味』(興陽館)の中で、次のように述べています。
【遺伝と環境という2つの影響を使って、子どもは成長の道を見つけていきます。けれど、方向と目標なしには、道も行動も決まりません。人間の精神の目標は、克服、完全、安全、優越です。153頁】
つまり究極目標とは、『克服』『完全』『安全』『優越』という、この4つの(極めて抽象的な)概念に集約されるというのが、アドラーの見解です。
アドラー心理学は「心理学」であると同時に、一つの「哲学」であるとよく言われますが、これはアドラー自身が、『個人心理学に形而上学の要素を見出す人は正しいということを認めなければならない』(生きる意味を求めて 225頁)と言っていることからも容易にうかがえます。
形而上学(けいじじょうがく)とは、西洋最大の哲学者の一人であり、「万学の祖」とも呼ばれたアリストテレスによって始められた哲学の中の一学問であり、それは「人間の感覚や経験を超えた(形や姿の見えない)物事を考察する学問」です。
この形而上学を重視したアドラーからしてみれば、究極目標という概念は「実態のない、個人の究極の理想」として、確かに存在しているものでした。
その代表的なものが『共同体感覚』です。共同体感覚は、いわゆる形而下学では理解することができない、人間の経験や感覚を超えた一つの理想なのです。
究極目標には実態がないわけですから、当然そこには(限りなく近づくことはあっても)永遠にたどり着くことはできない存在なのだということになります。つまり究極目標とは、われわれに「ただ方向を与える」だけの「導きの星」に過ぎないのです。
究極目標そのものは、われわれに進むべき方向を与えてくれるという意味では有用で、「自分のためになる」という意味では「善」なのですが、問題になるのは「そこ」へと向かう道であり、その歩み方です。
それはアドラーがよく使う言葉で2種類の道に分けることができます。つまりusefulな道か、uselessな道かということです。
useful・uselessは「有用か・有用でないか」というよりも、「建設的か」「非建設的か」と訳した方が、日本語的にはより適切かもしれません。アドラーは「共同体感覚」というものを、個人心理学の最も重要な「思想」として位置づけたわけですが、アドラーの言う2つの道は、共同体にとってuseful(建設的)か、useless(非建設的)かということを意味します。
そして、アドラーにとっては究極目標そのものよりも、この2つの観点の方がずっと重要でした。つまり自分にとって「善=ためになる」究極目標だとしても、そこへと向かう道が共同体にとって非建設的なものであるならば、それは「失敗」であり「誤り」であるということです。究極目標へと向かう運動法則のことを、アドラー心理学では「ライフスタイル」と呼びます。
☞ ライフスタイルについてはアドラー心理学で考える「性格」とは
をご参照ください。
結論を言ってしまうと、形而上学の範囲である究極目標を知ることよりも、「どのようにそこに向かって動いているのか」という自身の運動法則、つまりライフスタイルを知ることのほうが、よっぽど意味があると私は考えています。
特に大事なのは、自身のライフスタイルの「誤り」を知ることです。ライフスタイルは幼い頃に作られたものなので、それらはたいてい未熟で歪んでいるものだからです。
自分のライフスタイルを意識できるようになれば、ライフスタイルはよりよいものへと変えることができる。抽象的な究極目標を知ることよりも、こちらのほうがずっと魅力的で希望があると思いませんか?
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



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