『ケア』と『セラピー』の違い
- 鈴木昇平

- 2020年3月11日
- 読了時間: 4分
今日は心理関連の職業を目指している方や、また心理全般の仕事に興味を持たれている方におすすめの本『居るのはつらいよ』(医学書院)をきちんと紹介したいと思います。アドラーとは直接関係ありませんが、「心理職」という広いフィールドを理解する上では大変参考になる本です。
本書は副題にもある通り、「ケア」と「セラピー」の違いを徹底的に「現場感覚」で書き切った、いや、描き切った作品です。
冒頭から何度も出てくる「それでいいのか?」という声。それはセラピーを志す著者が「ただ、いる、だけ」のケアという仕事に対して、「それは価値を生んでいるのか?」「それは何の意味があるのか?」という自分自身への「問い」です。そしてこの問いは、物語の最後の最後まで、一貫した主題のように著者の中で鳴り響くのです。
臨床心理士である著者が勤務することになったのは、鋭い日差しが肌を焼く沖縄県那覇市の郊外。統合失調症などの神経疾患を患った人たち(メンバーさん)を朝の8時半から夜6時半まで預かるデイケアという仕事でした。
セラピー(カウンセリング)の仕事ももちろんあるのですが、デイケアのほとんどの時間は、メンバーさんと、ただ、一緒に、いる、だけ。なぜならそれがケアの仕事だからです。セラピーが、傷に向き合い、介入し、ニーズを変化させることで、自立や成長を促す仕事だとしたら、ケアの目的はまず「傷つけない」こと。そして支えることでニーズを満たし、依存を許容することで、生存や安全を確保してやること。
つまり、セラピーとケアの仕事は真逆のものなんです。セラピーは変化を与えるので時間は直線的に流れていきますが、ケアは変化がむしろ起こらないように「蓋をしてしまう」ので、時間はグルグルと円環的に動き続けるだけ。前に進むことはなく、ただ、そこにとどまるのだと著者は言います。だからケアの仕事は、ただ、そこに、いる、だけ。
しかし、「それで、いいのか?」という問いは、果たして著者だけのものだったのでしょうか?本書は、喪失の物語であるとも言えます。著者と著者の仲間(スタッフ)たちは、なぜ敗北し、なぜ喪失していくのか。
著者はやがて気付きます。ケアとセラピーは、二項対立した2つの職種ではなく、「人間関係の2つの成分」なのだということに。それは両者共に、人生にとってかけがえのないものだったのです。
どんな仕事にも、『セラピー的』な仕事と『ケア的』な仕事は存在します。それはおそらくどんな業界にも、『セラピー』的な仕事と『ケア』的な仕事は同時に存在しているのです。
私はどちらかといえば著者と同じで、『セラピー』的な仕事をしたいと思っているタイプの人間なのかもしれません。しかし私の周りには『セラピー』的なものを謳いながらも、実際やっている仕事は『ケア』的な人たちが実に多いことに気付きます。そう、実に多いのです。
なぜなら人は、「大丈夫だよ」と言ってほしいし、「そのままでいいんだよ」「変わらなくていいんだよ」と言ってほしい。そしてできることならば、何も言わずに「ずっとそばに居てほしい」からです。
それゆえに、そこにお金が集まる原理もよく分かるんです。(おっとごめんなさい。これ以上はネタばれになるので書けません。)
昨夜、2人の子どもを寝かしつけていて思ったんです。一緒に寝落ちしてしまい、夜中に目を覚ました時、子どもが静かな寝息を立てていて、その屈託のない寝顔を見ながら。ああ、俺はケアしながら、ケアされているんだなと。そう、ケアは「与える者」と「与えられる者」との境界をあいまいにします。
与えながらも「与えられている」という感覚は、セラピー派の私の胸を心地よい痛みでしめつけます。ケアは、人生になくてはならない成分なんです。それは確かに必要なものなんです。
しかし…私には著者のつぶやきが聞こえます。「それで、いいのか?」と。
著者がその仲間と(多くのものを失いながら)4年にわたって支え続けたデイケアは、これからもずっと、多くの変わることのないメンバーさんたちのアサイラム(居場所)であり続けることができるのでしょうか?
「それで、いいのか?」
あるいはこの問いは、この「居場所」を守り続けるために、永遠に繰り返されるべき問いなのかもしれません。
興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。臨床家・東畑開人は、ちょっと笑えてちょっと哀しくて、あきれるほど弱くて、愚かなほどに繊細な、そんな人たちの「居る」世界へ、あなたを連れていってくれますよ。
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



コメント