『なぜ心は病むのか』
- 鈴木昇平

- 2020年2月24日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年6月10日
『なぜ心は病むのか』(興陽館)を読み終えました。
この本はProblems of Neurosis の邦訳で、アドラーのまとまった著作としてはThe Science of Living(個人心理学講義)の後に出た本なので、アドラーの概念もだいぶ固まってきた感じがあるのですが、私が興味深いと思った箇所を紹介します。
【勇気、楽観的な態度、コモンセンスがあって、世界をわが家のように感じられるなら、よいことにもわるいことにも落ち着いて向き合えるでしょう。 優越という目標が、人類に貢献して想像力で困難を克服しようとする考えになるはずです 88頁】
コモンセンス(共通感覚)に基づいた楽観的態度と、勇気を持ち合わせた人間は、アドラーが定義するnormal(正常な)人間であり、これが我々の目指すべきモデルであるということになります。そして、この本で繰り返し問題にされるのは、この「優越」という考え方です。
「人は誰もが優越性を追求している」というのが個人心理学の前提ですが、その優越性の関心が「自分に向いているのか」「他者に向いているのか」によって、人生の課題に向かう態度が変わってくるというのです。アドラーは次のように言っています。
【個人の優越という目標があると、現実へのアプローチは妨げられます。210頁】
さらに、 【個人の優越という目標があると、人生の3つの課題のうち一つだけがクローズアップされます。成功の理想が、社会での評判か、仕事での成功か、性による征服のどれかに不自然に限定されるのです。そのため、社会での名声を求める人が好戦的で嫉妬深かったり、大事業家が他者を犠牲にして自分の利益を増やしていたり、浮気性の人がドン・ファン願望を抱いたりする様子が見られます。こうした人はみんな、人生で求められる多くのことを果たさずに人生の調和を崩します。そして、限られた行動範囲内をいっそう必死に突き進んで埋め合わせを行おうとします。212頁】
つまり、「個人の優越」という目標を持つと、社会から与えられる3つの課題(仕事の課題・交友の課題・愛の課題)をバランスよくこなそうとするのではなく、どれか一つに偏った対応をすればよいと考える。そしてこの状況(人生に向かう態度)が、「神経症」であるとアドラーは言うのです。
神経症にならないようにするためには、関心を自分ではなく他者へと向けておくこと。「世界をわが家のように感じる」とは、アドラーの言う「共同体感覚」のメタファーであり、まさに自分を「全体の一部である」と考えることにつながります。
アドラー心理学の全体論には、「個人はこれ以上分割できない全体的な存在である」という考え方と、その個人がさらに拡張されて、より大きな全体(誤解を恐れずに言うならば「宇宙」)の一部であるというニュアンスも含まれているのではないかと私は考えています。
アドラーは、アルバート・アインシュタインとも交流がありました。同じユダヤ人であるアインシュタインはアドラーの講演を一度か二度聴いていたと『アドラーの思い出』(創元社)にはあります。
【アドラーは、アインシュタインから手紙をもらったのです。… その手紙にはこう書いてありました。アドラーの個人心理学は、今日、最も科学的でかつ最も真理に近いものであります、と。86頁】
テクノロジーの進歩によって社会化される必然性が希薄になり、多くの人たちが「個人」という呪縛にとらわれている気がします。
個人の成功、個人の名声、個人の利益、そして個人の幸福。いや、個人の幸福だけは本当にそこに連なるものなのだろうか?と、最近はよく考えます。
それでも「個人」にこだわりたいという人がいるならば、個人の優越(personal superiority )ではなくて、個人の成長(personal growth )に注目してみてはどうかと思うのですが、いかがなものでしょうか。
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



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