「脇舞台」のアーティストたちに欠けているもの
- 鈴木昇平

- 2020年5月11日
- 読了時間: 3分
人生には中央舞台と脇舞台がある。
これはアドラーの高弟であり、35歳の若さで亡くなったウォルター・ベラン・ウルフの言葉です。
人生には直面しなくてはならない3つの課題があり、それは「仕事の課題」「性の課題」、「社会の課題」です。その3つの課題を偏りなく、バランスよく、そして建設的な方向でこなすことが「中央舞台」であり、そのバランスを欠いてしまった状態、あるいは非建設的な方向で対処することが「脇舞台」であるというのです。
以下に、『どうすれば幸福になれるか』(一光社)よりウルフの言葉を引用します。
「いわゆる「正常な」、勇気ある、正しく適応している人間は中央の三つの舞台で「演技をしている」。一方神経症的な人たちは、脇舞台に注意を集中している。正常な演舞者の多くは脇舞台にちょっと足を運ぶこともあるが、これは実際正常だというしるしである。
だが、神経症的な人間、つまり適応能力のない不完全な人間は、中央の舞台にほとんど触ろうともしない。「脇舞台」の出演者は、自分が三つの中央の舞台から逃避していることを自覚している、とわれわれは考えているが、おもしろいことに、脇舞台にいる神経症者は中央の舞台にいる正常な人間よりも例外なく忙しくしているという事実でこの考えが裏付けられる。脇舞台の出演者の過剰演技は、実際は免罪、免責のための言い訳なのである。
「脇舞台」にはすてきなこと、おもしろいことがたくさんあるのに、どうして中央の舞台で演技しろなどと期待をしかけるのか?」神経症者はこう尋ねる。「脇舞台の仕事が忙しすぎて、大きな舞台で演技する暇はない!」脇舞台の出演者はこう叫ぶ。 下巻83P」
人生とは、(それをアドラー心理学的にシンプルに結論づけてしまうと)自らが抱える劣等感をどのような形で補償していくかということです。補償とは、直面する人生の(3つの)課題に向き合う「姿勢」や「態度」によって表現されます。
例えば、仕事で大きなことを成し遂げれば、劣等感は補償されるでしょう。しかし「仕事」という課題でどれほどの成功を収めたとしても、「性」や「社会」の課題をおろそかにしていれば、それは単なる「ワークホリック」という名の神経症です。
逆に、家族生活は(「社会」や「性」の演技場では重要な位置を占めるので)それに集中することで劣等感を補償することはできます。しかし家族を維持することが人生において最優先する活動になってしまえば、それはやはり「脇舞台」なのです。

ウルフが言うように、脇舞台で演技している人は例外なく忙しそうにしていますが、それは単なる言い訳です。つまり「仕事が忙しいから、子どもと遊んでやる時間がない」とか「家族が何よりも大事だから、仕事はほどほどでいい」とか、脇舞台にいる人は「一つの課題で忙しくしていれば、他の課題は免責されると思っている。
これは「誤りである」とアドラー心理学では考えるのです。
あるいは劣等感は「ギャンブル」「アルコール中毒」「売春」「浮浪者」「利己主義」などによっても補償されますが、これらもまた言い訳にすぎません。有用ではない(非建設的な)行為によって人生を埋め合わせることは、メインの「中央舞台」で演技する勇気がない人たちであり、これもやはり「脇舞台」であると考えられるからです。
われわれ人間は、中央舞台同様、脇舞台においても様々なcreativity(想像力)を発揮させます。そういう意味では、我々はみなアーティストであると言えます。しかし脇舞台のアーティストたちに共通しているのは、「勇気」と「共同体感覚」が不足していることなのです。
アドラー心理学の大きな目的の一つは、脇舞台のアーティストたちが中央舞台で演技できるよう、彼らの抑圧された共同体感覚を引き出し、そして「有用な方向」へと勇気づけることなのです。
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)
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