「社会」は人間の弱さを補償するシステムである -社会統合論-
- 鈴木昇平

- 2020年7月29日
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更新日:2021年4月8日
『個人の人生を統一されたものと見なすのに加えて、人生を社会的な文脈と関連づけて考えねばならない』とアドラーは言いました。
子どもは最初生まれた時には弱く、そのためまわりの人は子どもの世話をしなければならなりません。子どものライフスタイル(性格)は、その子どもの世話をし、その劣等生を補償する人(つまり母親とか父親とか家族とか)と関連づけなければ、理解することはできないよと言うわけです。
『子どもの個性はその身体的個性を超え、社会的文脈と関連するのである』とアドラーは言います。そして、子どもと同様に大人も、その弱さゆえに社会の中で生きるように仕向けられている。つまり、『人間は社会の中に埋め込まれた存在』なのであるという考え方が、アドラー心理学の5つの理論の一つ、『社会統合論』(social enbeddedness)です。
アドラー心理学では個人の心理を、その外側にある社会との関係性で捉えようとします。社会に埋め込まれた存在である個人は、社会から与えられる課題に対して、必ず何らかの態度決定を求められるからです。
その態度決定(行動)によって、個人の心理(人生の目的)が見えてくると考えるのです。つまり行動は、その人の心理をあぶり出すリトマス試験紙の代わりになるのです。
しかし、なぜアドラーは『社会統合論』のようなスタンスを取ったのか?
それはアドラーが、基本的に『人間は弱いので、協力なしには生きていけない』と考えていたからです。
つまり、『動物の中でも弱い種は、常に集団で生きているんだ』と。例えば、『バッファローの集団は、狼に対して身を守ることができます。それは一頭のバッファローだけでは不可能だとしても、集団になれば頭を付き合わせることで、危険がなくなるまで足で闘うことができるんだ』というのです。
一方で、ゴリラや虎やライオンなどは、(どちらかと言えば個別に)バラバラに棲んでいます。『人間には、ゴリラや虎やライオンが持つような大きな力もなければ、強力な爪も、鋭い牙もないので、個別では生きることはできないのだ』というのが、アドラーの考えでした。
つまり「社会」とは、人間の生物学的劣等生を補償するシステムなのです。
よってアドラー心理学では「競争」ではなく「協力」を重視します。弱肉強食の自然界では、人間は協力なしには生きていけなかったからです。
最後に、このブログでは何度も登場しているW・B・ウルフの著書『どうすれば幸福になれるか』の中から、以下に引用します。ちなみにウルフは、アドラーが「マイサン」と呼んだ、おそらくアドラーの最初の弟子の一人でした。残念なことに、交通事故により35歳という若さで亡くなってしまいましたが。
『この文明を検証してみてわかったことだが、われわれの誇りとする偉業は、原始人の劣等感に端を発しているに違いない。眼のよい動物は顕微鏡や望遠鏡を必要としない。強い筋肉を持ったゴリラは、てこ・車輪・斧・鋤・ナイフ・蒸気シャベル・機関車・電動クレーを発明しない!耳の発達した森の生活者は、電話、楽器、ラジオを必要としないで生きている。
虎やライオンなどの肉食動物は、消化器官が発達していて獲物を料理する必要はない。毛皮を身につけた動物は、衣服なしでも快適に生活できる。生き物のなかで人間は、一般的にもっとも弱く、身を守る備えも貧弱である。親に依存する期間も動物のなかでもっとも長い。
従って、何らかの共同生活で身を守る必要性も高くなる。そして、アリのように社会生活を営む一部の昆虫を除くと(これらの昆虫の問題は、適応領域が限られているため、著しく単純化されているが)人間の文明社会は、自然界でもっとも複雑で効果的な補償作用である。
人類が種としてなし遂げてきたことを行う能力をすべての人がもっており、誰もが生き残るためにこれを是非ともやらねばならない。人類は、つねに集団生活を営んできたのであり、個人は肉体的にも精神的にも孤立して幸福に生きることはできない。個人の補償作用に対する唯一の制限は、個人の欠点や劣等生の補償作用は人間としての一般的な補償パターンに合致しなければならないことである。言い換えれば、社会的に有用な活動のみ、幸福を達成できる。【どうすれば幸福になれるか(上)(一光社)129P】』
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



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