「勇気づけ」について
- 鈴木昇平

- 2020年3月6日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年6月14日
今日は「勇気づけ」についてお話しします。アドラー心理学は「勇気づけの心理学」とも呼ばれていますが、この「勇気づけ」という言葉を誤解しているアドレリアン(アドラー心理学を学ぶ者)は少なくないように思えます。
私は「誰かを勇気づけよう」と思ったことはないけれど、私に「勇気づけられた」という人はたくさんいます。それと同様に、他の誰かが「私を勇気づけよう」と思ってやったのではなく、結果的に「私が勇気づけられていた」ということもよくあるわけです。
つまり何が言いたいのかというと、「勇気づけ」とは、こちらが能動的に(それを狙って)働きかけるものではなく、相手が結果的に(受動的)に「勇気づけられた」と感じる(気付く)ものなのではなかろうかということです。
確かに、アルフレッド・アドラーは、勇気づけることが大事であると著書の中で何度も言っています。しかし、アドラーは「勇気づけとはこういうことなんだ」としっかり定義してくれているわけではないし、ましてや「ありがとう・嬉しい・助かった」が勇気づけの言葉です、なんてことも言ってません(笑)
ただし、「勇気」については色々と言葉を残してくれていて、一番分かりやすいのはAdler Speaks という講演録の中で、3つの勇気について語っています。勇気とは、①不完全であることの勇気、②失敗することの勇気、③誤っていることを明らかにする勇気であるとアドラーは言っています。
つまりこのような3つのリスクを引き受けながらも、困難に立ち向かっていこうとする気概であり態度であり、それを支えるエネルギーが勇気であるということになります。
そういう状態に持っていこうとするのが「勇気づけ」だとしたら、結論から言ってしまうと、これは「相手との関係性」の中からしか生まれてこないものだと私は考えています。
お互いに信頼し合える関係性があって、その中から生まれる言語(あるいは非言語による)コミュニケーションの相互作用が、結果的に相手が「勇気づけられた」との気付きを得るまでの過程。それは決して意図的に行われるものではないというのが、私の見解です。
以前紹介した「なぜ心は病むのか」(興陽館)の中でも、アドラーはカウンセリングのルールとして2つあげていて、「一つはクライエントの信頼を得ること」、「二つめがカウンセラーが自分自身の成功にとらわれすぎないこと」といったニュアンスのことを言っています。
また、「勇気づけられること=気持ちいい」と認識している人が非常に多いようですが、果たしてそうでしょうか。私は必ずしもそうではないと考えています。勇気づけられた時、私はしばしば痛みを感じます。それは痛いんだけど、やってやろう!という気持ちです。
なぜそのように感じるのかというと、ライフスタイルにはみなそれぞれ「誤り」があるからです。(ライフスタイルとは性格のことだと思ってください)アドラーの原著を読んでいると、「ライフスタイルの誤り」という言葉が頻繁に使われていることに気付きます。誤りがあるからこそ、勇気づけられることでその方向性を変えたり、あるいは普段から訓練してきたパターンとその程度を弱めたりする時に痛みをともなう。私はそう考えています。
まとめると、「勇気づけ」とは(勇気づける側が)能動的に働きかけることによってなされるものではなく、相手との関係性(信頼関係)の中で行われる協働作業であり、結果的に勇気づけられる側の(あくまでも受動的な)感覚によって成立しているのだいうこと。
そして勇気づけの本質とは、ライフスタイル(性格)の誤りに気付かせ、使い過ぎている行動パターンの程度を弱めたり、方向性を変えるサポートをすることです。相手が、結果的に人生の課題に正対し、その困難を克服しようとする活力を得たと感じた時、「勇気づけ」という協働作業が完成するのです。
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



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