「個人の優越性」と「優越コンプレックス」
- 鈴木昇平

- 2020年7月12日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年4月8日
アドラーの原著を読んでいると、「優越性の追求」(the striving for superiority)という言葉がよく出てきます。アドラーはニーチェの影響も受けているので、これはニーチェの「力への意思」からその着想を得ているという見方もありますが、アドラーが斬新なのは、「優越性」というものを「劣等感の補償」という概念と結び付けて考えているところだと思います。
人が「優越性」を求めるのは、「価値」を求めるからです。岸見一郎先生によれば、ドイツ語では劣等感に[Minderwertigkeitsgefühl]という単語を当てるが、これには「価値が、より少ない感覚」という意味があるそうです。
つまり「価値がより少ない」と感じているから(劣等感)、人はみな「価値がより大きく」なる方向へと動き続きける(劣等感を補償しようとする)わけです。
ここで問題になるのが、その補償の仕方(優越性の取り方)です。その人がどのように優越性を追求しているのか?
アドラーがよくないと言っているのは「個人の優越性」です。つまり自分だけに関心を向け、自分だけが優越すればいいという態度。これについては、アドラーは以下のように言っています。
【個人の優越という目標があると、人生の3つの課題のうち一つだけがクローズアップされます。成功の理想が、社会での評判か、仕事での成功か、性による征服のどれかに不自然に限定されるのです。そのため、社会での名声を求める人が好戦的で嫉妬深かったり、大事業家が他者を犠牲にして自分の利益を増やしていたり、浮気性の人がドン・ファン願望を抱いたりする様子が見られます。こうした人はみんな、人生で求められる多くのことを果たさずに人生の調和を崩します。そして、限られた行動範囲内をいっそう必死に突き進んで埋め合わせを行おうとします。『なぜ心は病むのか』(興陽館)212頁】
そう、「個人の優越性」をこじらせたものが「神経症」と呼ばれる症状なのです。神経症には主に2種類あって、それは「劣等コンプレックス」と「優越コンプレックス」に分けられます。
この2つに共通する点は、いずれもアドラーの言う“the useless side of life”(人生の有用でない面)にあるということです。 有用でないというのは、「共同体」にとって有用でないという意味であり、それはつまり「自分にとってためになる=善」であることが、「周りの人(他者)のためにはなってない」という意味でもあります。これは、誰もがそこを目指して生きていると(アドラー心理学では)考えている、人生の「究極目標」中にも「誤り」があるという考え方にもつながるものです。
【成功の理想が、社会での評判か、仕事での成功か、性による征服のどれかに不自然に限定されるのです】とアドラーは言っていますが、このような態度を「優越コンプレックス」と呼びます。優越コンプレックスの裏には過剰な劣等感が隠されていて、それは元々「劣等コンプレックス」として、人生の有用でない面にあったものです。
その「劣等コンプレックス」の状態に耐えられず、人生の有用でない面で「優越性」を追求した結果が「優越コンプレックス」です。つまり「優越コンプレックス」は過剰な劣等感による第二フェーズなのです。
過剰な劣等感は強烈な「承認欲求」へと転化し、過剰な補償を要求するようになります。それが社会での評判や、仕事での成功、さらには性による征服のどれか一つに「不自然に突き抜ける」ことで、劣等感の過補償状態を作り出すのです。
「個人の優越性」や「優越コンプレックス」を緩和するものが一つだけあります。それが、「共同体感覚」を発達させることだとアドラー心理学では考えています。
鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)



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