「他者との一体感」に秘められた力とは
- 鈴木昇平

- 2020年4月24日
- 読了時間: 3分
以前に「不完全な勇気」は単なる自己受容ではないということを書きましたが、それはアドラーが、“be”「〜である」という静止状態よりも、 “become”「〜になる」ことへの動的なものを重視していたからです。以下に『個人心理学の技術Ⅱ』(アルテ)よりアドラーの言葉を引用します。
「われわれが共同体感覚と呼んでいるものは他者と緊密に結びついているということの一つの面にすぎず、われわれが勇気と呼んでいるものは人が自分のうちに持っており、自分を全体の道具であると感じさせるリズムである。われわれが現代の発展の平均を考慮し、そこにまだどれほど欠けているものがあるかを見る時に誤ってはいけない。そのことはわれわれの「なる」ことにとって新しい課題を与えるのであり、われわれの存在を「ある」、あるいは何か静止するものと見てはいけないのである。」
アドラーは人類の進化とか進歩とか発展について、常に敏感でした。そして「人類の進歩を妨げる者は間違っている」とはっきり言いました。欠けていること、つまり不完全であることは「完全になろう」という課題を与えることで人類に「動き」をもたらします。この動きこそがアドラーにとっての進化であり進歩であり発展だったのです。
アドラーはここで「勇気とは自分の中に持っている、自分を全体の道具であると感じさせるリズムである」という独特な言い回しをしています。「個人は全体の一部である」というのがアドラーの口癖で、この全体というのは共同体を指していると考えられますが、問題となるのはその範囲です。おそらく、ここで言っている共同体は自分が所属している組織とか地域コミュニティとかあるいは国家とかでもなくて、もっと広い意味での共同体であると考えられます。つまり、宇宙です。個人は宇宙全体の一部であると言ってしまうと、何だかスピリチュアルな感じがしますが、おそらくアドラーは本気でそのように考えていたのではないでしょうか。
自分を(宇宙)全体の道具であると感じさせるリズムが勇気だとしたら、勇気というそのエネルギーは「宇宙と一体になった個人」が宇宙のために貢献する力であり、それと同時に宇宙から与えられるパワーということになるかもしれません。
人は「他者」と「自分」というように、自己と他者を分けて考える傾向があります。(まあ当たり前のことではりますが)しかし、自己が他者と切り離されていない状態、つまり「他者との一体感(oneness)」に、実は隠された秘密があるのではなかろうか?と私は最近考えています。欠けているという不完全な感覚(be)は、他者との一体感(become)によって成し遂げられる「完全」に向かう進化の道のりなのかもしれない。アドラーの原著を読んでいると、そんな気がしてならないのです。
鈴木昇平(アドラーカウンセラー)



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