top of page

「不完全な勇気」は単なる自己受容ではない

 アドラー心理学では有名なフレーズになっている「不完全は勇気」。これは「完璧じゃなくていいんだ。そのままの(不完全な)自分でいいんだ」というふうに解釈されている人が多いようですが、それは誤解です。「不完全な勇気」とは、単なる「自己受容」ではないのです。人生において自己受容はとても大事なことですが、「不完全な勇気」とはさらにもう一歩進めた考え方なのです。順に説明していきましょう。

 自分に向いている関心を「他者」に向けていくことを「共同体感覚」とアドラー心理学では呼んでいますが(☞「自分」に向けている関心を「他者」に向けると健康になれる)、まず「勇気」はこの「共同体感覚」とセットで考えなくてはなりません。

 人は困難に直面したり失敗を恐れたりする時に、必ずと言っていいほど「自分」に関心が向いてしまう生き物です。そんな時に、今自分が直面している「人生の課題」から逃げないこと。「対人関係」をともなうそれらの課題を「正しく」解決するためのエネルギーを、「勇気」であるとアドラー心理学では考えています。(これが前提です)

 勇気は主に3つあるとアドラーは言っています。一つは「不完全な勇気」。二つ目が「失敗する勇気」。そして三つ目が「誤っていることを明らかにする勇気」です。

「不完全な勇気」を引き出すためには、まずは完全でない自分を受け入れるという自己受容感が必要になります。しかしそれで終わりではないんです。「勇気」とは困難を克服するための活力ですが、それは別の言い方をするならば「リスクを冒す」ということでもあります。つまり「不完全な勇気」とは、不完全な自分を受け入れる(というリスクを冒しながらも)完全を目指す活力のことなのです。もっとストレートな言い方をしてしまうと、「不完全な自分で勝負する」という気概のことなのです。

「失敗する勇気」を持つためには、失敗は「評価」でもなければ「レッテル」でもないと意味付けする必要があります。人は失敗から多くを学びます。だからまずはやってみて、うまくいかなければ修正して、また再度やってみる。失敗する勇気とは、トライアル&エラーで継続して物事に挑戦していく勇気のことです。

 最後に「誤っていることを明らかする勇気」とは、その言葉通りの勇気です。自分の体面や面目を保つために、自分の誤りを認めることができない人は少なくありません。例えば、他人の前で自分の間違いを認めることのできない人は(自分のメンツを保つためだけに)平気でウソをついたりします。そういう人は「誤っていることを明らかにする勇気」が不足しているのです。

 繰り返すようですが、これら3つの勇気は、人生の課題(「仕事の課題」「交友の課題」「愛の課題」)を「正しく」解決するためのエネルギーとして使われます。勇気には(課題に直面した時に)その困難や失敗を恐れて「自分」に向いてしまう関心を、課題解決に専念させる力があります。


 人生の課題は「他者」と「他者の集積である社会」からもたらされる課題であり困難ですが、それでは「正しい解決方法」とはどんなのものなのでしょうか?結論から言ってしまうと、そこには「共同体感覚」が深く関わってきます。そのあたりのことを、次回のブログで掘り下げてみたいと思います。

鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)

 
 
 

コメント


©  Shohei Suzuki

bottom of page