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『こらだ』とアドラー心理学の『全体論』

更新日:2020年6月17日

 東畑開人氏の『居るのはつらいよ』(医学書院)は大変面白い本で、このブログでもちょいちょい取り上げていきたいと思っているのですが、その中で中井久夫という精神科医の言葉を引用しているのが印象的でした。


 

 『心と体を分けておくのは、それが便利だからという理由に過ぎない』


 

 そう、我々はしばしば心と体を分けて考えます。それは心が目に見えなくて、体は目に見えるからかもしれないし、あるいは東畑氏が言うように『指にイボができたとき、これを「心がけが悪い」とか、「神の祟りだ」とか言い出すとややこしくなるから、液体窒素で焼いてしまったほうがいい。体のことは体のことにしておくのが便利だから』かもしれません。


 

 しかし、心と体はそんなにスッパリ綺麗に分けられるものではないということを、実は我々は知っている(誰もが気づいています)。緊張すれば胸が苦しくなったり手や足が震えたりするし、不定愁訴と呼ばれる(医学的には)原因不明の痛みや苦しみといった症状を、我々は多かれ少なかれ体験しているからです。



 『調子が悪くなると、心と体は容易に混同されてしまう』と東畑氏は言います。調子が悪くなり、心と体がグニャグニャと混じりあった存在を、中井久夫氏は『こらだ』と名付けました。


 

 こらだ。心と体の境界線が焼け落ちて、心と体がグニャグニャと一体化してしまった存在。アドラー心理学では、実はこの「こらだ」を扱います。アドラー心理学では「精神」と「肉体」、「意識」と「無意識」、「理性」と「感情」といった、いわゆる二元論でその人を分析することをしません。


 

 その人(個人)を統一された一つの存在として考えるのです。つまり「こらだ」です。アドラー心理学の正式名称は「個人心理学」です。アルフレッド・アドラーが、この「個人」という名称に込めた思いは2つあると言われていて、


 一つは、類型化できない今目の前にいるその人「個人」を扱う心理学であるということ。もう一つは、個人を意味するindividualにはnot dividual (分割できない)という意味があり、「個人をこれ以上分割できない全体的な存在である」と考えたからだと言われています。


 

 この考え方をアドラー心理学では「全体論」と呼んでいます。そして、心と体の境界性がなくなりグニャグニャと一体化した「こらだ」には、「たった一つの目的がある」とアドラー心理学では考えています。


鈴木昇平(アドラー・カウンセラー)

 
 
 

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